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東京高等裁判所 昭和53年(う)1805号 判決 1979年2月08日

被告人 齋藤宏一

主文

原判決を破棄する。

被告人を禁錮七月に処する。

原審および当審における訴訟費用は全部被告人の負担とする。

理由

本件控訴の趣意は、東京高等検察庁検察官検事中野林之助が提出した控訴趣意書に、これに対する答弁は、弁護人池田昭男の提出した陳述書と題する書面にそれぞれ記載されたとおりであるから、これらを引用し、これに対して、当裁判所は、次のとおり判断する。

控訴趣意第一(法令解釈適用の誤り、事実誤認の主張)について

所論は、要するに、原判決は業務上過失致死罪の公訴事実について、被告人の行為と被害者の死亡との間に相当因果関係がないとして同罪の成立を否定し、業務上過失傷害罪を認定したが、これは因果関係に関する法令の解釈適用を誤り、事実を誤認したもので原判決は破棄を免れない、というのである。

そこで記録を調査し、当審における事実取調の結果をも加えて検討すると、被告人は昭和五〇年一〇月二二日午後四時三五分ころ、原判示のとおりの経緯のもとで普通貨物自動車を時速約二〇キロメートルで運転し、前方を十分注視しないで進行した過失により被害者清水富重(当時七三年)に自車左前部を衝突、受傷させたこと、同人が昭和五一年六月二三日午後一〇時二〇分ころ死亡したことが明らかであるところ、関係証拠によれば、右清水は本件衝突により約三・八メートル先の路上(アスフアルト舗装)に転倒し、右頭部挫傷、脳挫傷等の傷害を受け、卜部病院に収容されたが重症で予後の推定不能と診断され、以後同病院およびその後転院した荻野医院において入院加療中のところ(なお、同人は受傷後、排尿排便碍障、失禁状態が続き、記憶力、記銘力、歩行能力等が減退し、死に至るまで付添看護を必要とする病状であつた)、同人は肺結核病巣を有していたため、長期間にわたる臥床により全身衰弱をきたし、その結果、沈静化していた肺結核症が再燃、進展して、受傷後約八か月を経過した前記日時刻ころ死亡するに至つたものであることが認められる。

以上の事実関係のもとにおいて、原判決は因果関係について、相当因果関係説の見地を前提として、被告人に被害者の死亡について責任を負わせるためには、原判示の傷害から肺結核症による死亡という結果が発生することが経験則上通常予想し得るものであることが必要であるとし、一般人にとつて被害者が肺結核の病巣を有していたことを認識し得る状況にあつたとか、被告人においてそのことを認識していたというような特段の事情の認められない本件においては、被告人の過失と被害者の死亡との間に相当因果関係を認めることはできない旨判示する。

しかしながら、本件は、被告人が、前示の業務上の過失により走行中の自車を被害者に衝突させ、その結果被害者が脳挫傷等の重傷を負い、この傷害に起因する前示の因果の過程を辿つて死亡するに至つた事案であつて、被害者が受傷してから死亡するに至るまでの間に被害者自身または医師を含む第三者の故意ないし過失による行為等によつて右因果の系列が断たれたとすべき要因の介入は全く認められないのであるから、被告人の過失行為がなかつたならば、被害者の死の結果も発生しなかつたという関係が認められるばかりでなく、本件のような自動車の衝突事故による傷害によつて、被害者が直接または余病を併発して死亡するであろうことは、社会経験上稀有のことではなく、一般人においてこれを予見することも十分可能であるといわなければならないところ、原判決のいう相当因果関係説によつても行為と死の結果との間に因果関係があるというためには、個々の具体的経過事実についてまで予見しうることは必要ではなく、社会経験上通常予想しうる程度の関係があれば足るとすべきものであるから、前記のとおり、被害者が被告人の過失行為による右傷害の結果長期にわたる臥床を余儀なくされて全身衰弱をきたし、その結果肺結核症が再燃、進展して死亡するに至つたことの明らかな本件の場合には、確かに被告人は被害者が肺結核症の病巣を有していたことを予見しえなかつたとしても、被告人の過失行為と被害者の死亡との間の刑法上の因果関係を認めるに十分である。

そうすると、右と異なる見解に立ち本件につき業務上過失致死罪の成立を否定した原判決は、刑法上の因果関係について事実を誤認し、かつ法令の解釈適用を誤つたものというべく、その誤りが判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、原判決はこの点で破棄を免れない。論旨は理由がある。

よつてその余の論旨についての判断を省略し、刑訴法三九七条一項三八〇条、三八二条により原判決を破棄したうえ、同法四〇〇条但書を適用し、当裁判所において直ちに次のとおり判決する。

(罪となるべき事実)

被告人は、自動車運転の業務に従事するものであるところ、昭和五〇年一〇月二二日午後四時三五分ころ、埼玉県深谷市大字萱場二〇四番地先交差点を国道一七号線方面から児玉町方面に向け時速約二〇キロメートルで普通貨物自動車を運転して直進中、左斜前方約一〇・八メートルの上り坂道路左端(左側歩道から約〇・四メートルの地点)を自転車を押しながら自車と同一方向に歩行していた清水富重(当時七三年)を発見したが、このような場合には自動車運転者としては同人の動静に絶えず注意しながら進行して、事故の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り、右交差点を右折すればよかつたのではないか等と考え事をしながら前方を十分注視することなく進行した過失により、歩行中のときよりも道路内側(中央線側)に入つた左側歩道から一・三メートル位の地点を右自転車に乗つて走行しはじめていた同人をその直前に至つてようやく発見し、急制動の措置を講じるとともにハンドルを右に転把したが間に合わず、自車左前部を同人に衝突させて同人を路上に転倒させ、よつて同人に対し、右頭部挫傷、脳挫傷等の傷害を負わせ、同人をして右傷害により同日から同市大字深谷三九〇番地卜部病院および同年一二月八日から同市大字東大沼四〇七番地荻野医院において入院加療を余儀なくさせ、その結果長期間の臥床による全身衰弱を原因として肺結核症を再燃させ、同五一年六月二三日午後一〇時二〇分ころ、前記荻野医院において同人を前記傷害にもとづく肺結核症により死亡させたものである。

(証拠の標目)(略)

(法令の適用)

被告人の判示所為は、刑法二一一条前段、罰金等臨時措置法三条一項一号に該当するところ本件は普通貨物自動車を運転して交差点に差しかかつた被告人が進路に躊躇して、自動車運転者の基本的注意義務である前方注視を欠いた結果発生したものであつて過失の程度が重いこと、被害者は受傷当時七三歳であつたが年令のわりに壮健であつたのに受傷後約八か月間にわたり心身の機能障碍を伴う長期臥床を余儀なくされた後死亡するに至つたもので結果も大きかつたこと、被告人にはこれまで酒酔い運転二犯を含む道路交通法違反の罰金前科が四犯あることなどを考えると被告人の責任は重大といわなければならないが、現在は被害者の遺族との間で示談が成立していること、被害者の直接の死因は肺結核症で、同人が古い結核病巣を有していたという被告人にとつて、やや不運の事情もあることその他両親や妻子を抱えての家族関係や家業である木工業の営業状態等被告人に有利な諸般の情状をもしん酌して、所定刑中禁錮刑を選択し所定刑期の範囲内で被告人を禁錮七月に処することとし、原審および当審における訴訟費用は刑訴法一八一条一項本文を適用してこれを全部被告人に負担させることとし、主文のとおり判決する。

(裁判官 千葉和郎 永井登志彦 中野保昭)

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